月別アーカイブ
台湾形成外科学会から招待講演を依頼されました
一昨日台湾形成外科学会から招待講演の依頼をもらいました。名誉なことですが、招待を受けてもらえるのであれば、さらに追加で学会の前に1週間ほど早く台湾に来てもらって、台湾の名門病院であるChang Gung Memorial Hospital のVisiting Professorとして診療や手術の指導をしてくれないかという相談ももらいました。現在私の仕事の一部になっているジョンズ・ホプキンス大学の客員教授と同じような仕事の依頼が来てしまったわけです。過去には他にはルーマニア美容外科学会でも同じようなことをやったことがあります。その時はルーマニア美容外科学会の招待講演を4つほど担当したのですが、その後にルーマニア医科大学のVisiting Professor を依頼されて引き受けたことがあります。
ほとんどの仕事はいろいろの患者さんの治療方針について私ならこのようにやりますとか、私の実際の手術方法を指導するとか、実際に現地で患者さんの手術を担当するなどです。まれには死体を使って、若い医師を指導するなどのこともやったりするわけですが、、。ただ、今回の台湾については12月ということになるので、どちらかというとクリニックでの手術の予約の多い月になるので、できればあまり長期に休みを取りたくないと思っています。そういう判断で、台湾形成外科学会の招待講演のみの参加ではだめなのかと相談中です。それなら4-5日くらいの休診ですみますので。
台湾は何回も行っているのですが、ごく一部なのですが、街の中ではヘビを食べるお店がありますよね。あれがどうしても苦手で、匂いも多少独特ですもんね。台湾では経験がありませんが、中国では実際に2回ほど食事にヘビが出てきたことがあります。ヘビのスープともう1回はなんだかぐちゃぐちゃした料理の中に入っていました。独特の匂いがある上にスープで出された時は、あきらかに見た目でヘビがぶつっとそのまま切断されていて、スープに入っているのです。周りの中国の医師の方々にこれってヘビですよね?と聞くと、そうですよ、美味しいので、ぜひ、、、。こういうの苦手です。日本人はヘビは食べませんと言って断りましたが、皆さん美味しいのに残念ですとか言われて、、、。本当にまわりの中国の先生方は美味しそうに笑顔で食べられていました。無理な食べ物ってやっぱりありますよ、大体は食べることができますが、、。中国で本当は一口も食べたくないのに、頑張って食べたものとしては、サソリ、クマの手というか足というか、それにヤギの一匹そのままの丸焼き(これもかなりの匂いでしたが頑張りました)、、、。食べますか?と言われて絶対にいやと言って断ったものとしてはサルの脳みそ。これも怖いですよね、人間としてこういうものを食べていいのかどうなんだか、、。
台湾ではあとはとても臭い豆腐がありますよね。臭豆腐って言ってますけど。これも匂いが強烈なので、無理です。近くで食べられても不快になります。こういう怖い食べ物は普通は学会では出しませんけどね。街では出会ってしまうので、時々倒れそうになります。そもそも学会ではだいたいあまり高額で美味しいものは出してくれません。やはり予算というのがありますもんね。でも時々現地の親しい医師たちやときには会長などが学会の懇親会ではあまり食べないでくれと言って、その後になかなか美味しいお店に連れてくれたりすることがあります。台湾でもこういう高級レストランなどで食事をすると涙が出るほど美味しい食事を楽しむことができます。今年の12月はどんなことになるのでしょうね?
投稿者:megaclinic
小倉で思い出したこと
北九州市の小倉というのはなんとなくとても面白い街です。小倉北区はちょっと住みにくい場所なのかもしれませんが、私の住んでいた小倉南区は、とてものどかないいところでした。私自身は京都生まれの京都育ちなので、小倉に転勤になるまでは物心がついてからは京都しか住んだことがありませんでした。京都という街は他の地区から引っ越した人にはとても面倒なところなのかもしれません。一応上品な街ということになっていますので、とにかく本音でものを言わないですよね。
以前京大病院のある看護師さんが北海道出身で、いきなり京大病院勤務になり京都に引っ越してきたそうです。引っ越して間もない頃に近所でお祭りがあったそうで、近所のどなたかが寄付を集めるために家に来られたそうです。京都の人はまずいきなり寄付のお願いです、、なんて言えないですよね。そこにたどりつくまでに、どうでもいい話が多すぎるわけです。いきなり寄付を集めてるのでお金をくださいなんて京都の人は絶対に言わないです。それで北海道出身の看護師さんに、町内のお祭りがあるんですよね、、。それでもしいやだったらどうでもいいんですけど、町内会でお祭りのための寄付を集めようかみたいなことになっていますねん、、みたいなことだったと私は想像しているのですが、、。それで彼女はいやです、寄付はしませんって言ってしまったのだそうです。ジャーン、、、ですよね、全く。その後京都のことなので、あちこちで陰口をたたかれたそうです。今度町内に引っ越してきた〇〇さん、きっつい人でっせー、寄付を断らはりますねん、どう思います?感じワルー。多分こんな調子だったのでしょうね。彼女に言わせると寄付がほしいならほしいって言えばいいじゃん、、みたいな。どっちもどっち、引き分けですね。
こんな感じの京都から小倉に引っ越してからはびっくりの連続でした。小倉ってもう皆さん思ったままをはっきり言いますし、京都のようにお隣にはどんな人が住んでいるのか、よくわからないというようなご近所はまずありません。初めてお向かいの家の奥様に出会ったのは、雨が降り出したある日のことでした。いきなり知らないおばさんが私の家に入ってきて(小倉はあまり昼間に鍵をかける家がないのです)2階に駆け上がってしまったのです。私が知らないおばさんが家にいきなり入ってくるなど、京都なら警察に電話しよか?です、とにかく。しばらくしてから「雨やけねー、洗濯物を入れといたけねー。」と大きな声でわめきながら家を出て行かれました。私は今の誰?、、みたいな。なにしろ見たことのないおばさんでしたから。
それ以後このおばさんのご主人も同じような感じで、夜の9時くらいにいきなり私の家に来られて、「いい焼酎が入ったとですよー」と焼酎をぶら下げてうれしそうに私の家に入って来られました。焼酎をくれるのかなあ?と思ったりしたのですが、一緒に飲まんですかーと言いながらそのまま家に上がって来られました。それからいきなり宴会が始まるのです。途中でこのお隣さんは私の家で寝てしまうし、、、。京都ではありえないです。まあ、こんな感じの暮らしでしたねえ、小倉は。ご近所で本当にいい人が多くて、今もお付き合いが続いているのはありがたいことです。小倉南区は京都にはおられないタイプのとてもいい人がたくさん住んでおられます。
投稿者:megaclinic
北九州市小倉
私自身は北九州市の小倉というところに6年間暮らしたことがあります。それ以前は京大病院や大阪赤十字病院などに努めていましたので、京都に住んでいました。大阪赤十字病院に勤務していたある日、京大の形成外科教授から連絡があって、北九州市の小倉記念病院への転勤という話をもらったわけです。それ以後6年間小倉記念病院の形成外科主任部長として北九州市の小倉でこの病院に勤務していました。この間は私の乳がん後の乳房再建が有名になり、当時小倉記念病院形成外科が乳がん後の乳房再建症例数で日本一になっていました。今は私のあとの部長があまり頑張りやさんではなかったので、乳がん後の乳房再建はこの病院ではほとんど行われなくなって、東京の癌研有明病院形成外科が日本一の症例数になっています。
小倉ではいろいろの思い出があり、今も親しくお付き合いをしている友人たちも何人かおられます。昨日このような小倉の友人と会うことがあり、いろいろ小倉の懐かしい話などもしていました。小倉記念病院というのは小倉北区にあって、ここはどちらかというと暴力団関係の方が多少おられる場所です。私が京都から転勤になったとき、最初に家を探す必要があったのですが、病院の事務の方から小倉北区は病院には近いのは便利だけど、医者はほとんど住んでいないと言われました。理由は危ないからということでした。これってすごい理由だなあとその時は思っていました。
最近の小倉の様子というと、紫川という川があるのですが、ここにロケットランチャーという兵器やピストル、実弾、手榴弾などが捨てられていたのだそうです。私の友人の話では警察による暴力団の取り締まりが強くなって、こういうものを隠す場所に困って捨てたのだろうということでした。あー、小倉ならありかもとか思ってしまいました。今でもちょっとこわい街なんですねえ。それから毎年夏には小倉祇園というお祭りがあります。以前は本祭では太鼓の競演があったり、太鼓を載せた山車が街中を練り歩いていたのですが、最近はこの小倉の街中を練り歩くのが禁止になって、ただ商店街の中だけをしずかに山車が引かれて、移動するだけになっているのだそうです。どうしてそうなったかというと、以前から何度もこの山車がぶつかったりして、殴り合いのケンカが多発していたからだそうです。なんとも困ったことですよね。
投稿者:megaclinic
京大医学部ソフトテニス部の合宿
私がヘッドコーチをしている京都大学医学部ソフトテニス部には現在男女合わせて約70人の部員がいます。京大医学部構内には悲しいことに2面しかテニスコートがなく、これを硬式テニス部と軟式テニス部が共同で使用しています。簡単に言うとテニスコートの取り合いのような状況で、男子も女子もそれぞれ週に2回ずつ、毎回3-4時間くらいしか練習ができません。私が学生だったころは部員がもっと少なかったことと、軟式テニス部の専用コートが1面医学部構内にありましたので、天気がよければ、もういつでも好きなだけ練習ができていました。今の部員はかわいそうなことに、十分な練習をする場所がありません。これで強いテニス部を作るのって、どう考えても難しいです。
今回の合宿の場所は和歌山県の日置川テニスコートというところです。和歌山市や白浜などからまだはるかに南の方にあります。周囲には温泉も多く海もきれいですてきなところなのですが、今回の問題はテニスコートのすぐ近くにあったすてきなホテルが閉館になったことです。海が目の前にあって、温泉も素敵で、お料理もそこそこ美味しかったのですが、どうして閉館なのでしょうねえ。他には周囲には民宿ばかりで、もういっぱいで予約も取れません。それになんというか、民宿って、共同風呂、共同トイレですし、他のどこかの団体の学生などの合宿などと一緒のお部屋ってねえ。なんというか耐えられません、私には。
他のまともそうなホテルを探してもこのコートからはかなり遠くて、とにかくそこしか予約がとれませんので、面倒です。大体大阪から和歌山を超えてはるか南まで車で行ったりすると5-6時間くらいかかるかもしれません。あのあたりは道があまりまっすぐに走っていないのです。そうなると現地でタクシーがいるわけですが、聞いてみるとこのあたりにはタクシーが1台しかないそうです。それも日曜日はお休みなんですって。えー、なんですと?って思いますよね。それで和歌山市内のタクシー会社5つくらいに予約ができないか聞いてみたのですが、その場所は遠すぎて会社の範囲ではないとか、予約はできませんとか、もうとにかく不便なのです。学生のだれかが車で来ていないか聞いたのですが、京都からは遠すぎて、全員バスで京都から往復なのだそうです。ホテルの方にも相談したのですが、タクシーの代わりのような車の手配はできないと断られてしまいました。そんなわけで、とりあえず今は便利屋さんを捕まえてあって、この会社の方に日曜日はホテルとコートの往復をお願いしてあります。トラックなどで運ばれるんですかね?とにかくなんでもいいので、ありがたく思っています。こういう不便なところでの合宿はやめてほしいです。もー。
投稿者:megaclinic
口角の引き上げかた
口角が下がるのはなんとなく加齢による変化がわかってしまっていやですよね。この悩みも意外に多いものです。今回のコロンビアでの学会でこの問題に対する治療についてのディスカッションがあって、興味深く聞いていました。いくつかは私が従来行っている方法でいい結果が得られるのは知っています。ただアメリカの医師の報告していた新しい方法もなかなか面白かったです。口角の動きをかなり細かく分類して検討されていました。口角の位置は口の周囲にある口輪筋という筋肉、口角下制筋という口角を下げる時に作用する筋肉、さらに笑筋と言われる主に笑う時に働く筋肉のバランスで決まっています。
これらのいずれの処理を行っても、口角の位置を多少移動することができます。従来口角下制筋の切断という方法がありますし、この筋肉の作用を止めるためのボトックスの治療も確立しています。また笑筋の引き上げという方法はフェイスリフトの際に併用することができます。この方法は私も時々行ってきた方法なので、いい結果が得られることも経験上よく知っています。今回の学会ですこしおもしろかったのは、口輪筋の処理についてです。これは人中短縮の際に併用して行うというものですが、白人では皮膚が伸びやすいので、この手術はやりやすいのかもしれません。口輪筋が加齢によってどのように変化するかを研究されていて、それが若いころの位置に戻るような短縮方法を発表されていました。このほうが機能的には正しいのではないかと思ったりして聞いていました。ただ東洋人と白人は皮膚の伸展性や傷あとの治り方などが全く異なっていますので、この方法が白人ではとてもいい結果になっても、日本人にそのまま適応していいのかどうかはもうすこし検討もいりますし再評価も必要かもしれません。さらに白人では人中短縮の際に口がへの字になってしまうような変形を防止するために切開をさらに法令線側に延長するようなことはよく行われていますが、この部分の傷は日本人では目立つことになり、ここを切開できないという問題が東洋人での人中短縮の限界のように思います。この切開が可能であれば、さらに口輪筋の処理の併用がかなり簡単にできるのですが、東洋人では皮膚が伸びない方が多いので、通常の日本人のための人中短縮の切開から口輪筋の処理を併用して行えるかどうかはさらに検討がいりそうです。ただフェイスリフトの時であれば、皮下の剥離を広くすることでこの処理の併用が可能なので、今後フェイスリフトの際に口角の引き上げが必要なケースではこの新しい方法も検討したいと思っています。
投稿者:megaclinic
オペラ蝶々夫人
プッチーニの名作と言われるオペラの蝶々夫人を見てきました。私が生まれて最初に見たオペラがこの蝶々夫人です。最初に見たのは私が小学生の時で、小さい子供にピンカートンみたいな、奥さんが日本にいるのにアメリカで次の奥さんとまた結婚するようなふざけたおっさんの話って、本当にその時は不愉快でそれ以来ずっとオペラがつまらないものになってしまっていました。その頃は世の中の詳しい事情もわかっていない小さい子供をこんなつまらないオペラに連れて行った両親にちょっとムカついていたようなわけですが、私もいろいろな人生経験もあって成長したのでしょうねえ。その後何回も蝶々夫人も見ているのですが、今は本当にこういう話に入っていけますし、今回は2幕で蝶々夫人が窓から海を見ながら夫であるピンカートンが乗っている船の帰りを待っているシーンで泣いてしまいました。親戚のみんなから見放されても、一途に夫を待ち続けるって美しい話ですよねえ。
今回の演出はごく最近亡くなられた栗山昌良さんで、日本の話を日本の演出家が手がけるのは本当に日本人ならこうするという細かい場面も心配りが感じられました。さらに舞台は、時々花びらが散る桜の木と家の前にある小さい坂道など、本当に美しかったです。何より佐渡裕さんの指揮による演奏が心に響きましたし、蝶々夫人の迫田美帆さん、スズキの林美智子さん、ピンカートンのマリオロハスさんなど、みなさんの歌声が本当に透き通っていて、素晴らしい舞台でした。時々素敵な音楽の中で時間を過ごすのはたまりませんね。
投稿者:megaclinic
私の父親が京大病院に務めていた頃の話
私の父親も祖父も私も3代続けて京都大学医学部の卒業です。父はもう他界しましたが、父が大学卒業後に京大病院の小児科で研修医、医員だった頃の話はよくしていましたので、たくさんの話を覚えています。本当に白い巨塔の小説のままのような、今から思えばありえない時代だったなあと思います。外科の教授は電車を降りる時には「京大の〇〇だー」と言って、電車賃などは払わずに電車を降りたそうですし、内科の教授は外来の診察のときに患者さんに「話が分からん者は黙っとれー。」などとどなっていたみたいです。小児科教授の回診などの際は、1階病棟の回診が終わって、2階に移動する際、教授だけがエレベーターに乗って、エレベーターのドアが閉まるまで医局員は全員頭を下げたままにしていて、ドアが閉まった瞬間に、全員階段を全速力で走って上がり、2階のエレベーターの前に整列して頭を下げて、教授を待ったそうです。ホントにバカみたいですよね。でも誰も教授にバカって言えないような時代だったみたいです。あ、今もなかなかそんなことを言う人はいないですよね、多分。でも私は今の時代でもちょっとだけバカって言いたくなる日本の大学教授っているんですけど、、、二人ほど。どうしましょう?
投稿者:megaclinic
名前で損をすることがありますよね
自分の名前で損をすることがありますよね。ラストネームはご先祖様からいただいたものなので、あまり、どうこうは言いたくありませんけどね。ファーストネームは多くの場合、ご両親が必死で考えたものなのかもしれません。私の場合、どちらの名前もどうなんだろうね、、、と思ってしまうのです。要するに日本人以外の方々がどうしても覚えられないとか、正しく発音できないという問題があります。ススムはうううという発音が続きますし、タカヤナギはああああという発音が続くことになります。これは特に欧米の人たちにとっては耐え難い発音というか、正しく発音するのがかなり苦痛のようです。
最初にこのことを経験したのは以前にも言ったことがありますが、同志社中学にいた時のことです。当時同志社中学にはアメリカから来られた二人の英会話の先生がおられました。ラッシー先生とグウィン先生という先生です。ラッシー先生は私を当てる時にいつもミスタータキヤナガと言っておられました。グウィン先生はミスタータコヤナギでした。このためです、私の中学生の時のあだ名はタコでした。
中学の時に私のラストネームはかなり白人にとっては難しい発音になるのだなあということを理解していました。でも当時はススムも難しいということはわかりませんでした。その後特にアメリカにはたびたび手術の見学に行っていたわけですが、この時にあちらの皆さんが私のファーストネームをススミとかススモとかスシとか、とにかくほとんどの人が正しく発音できなかったのです。国際美容外科学会(ISAPS)の理事会では皆さん私の名前では毎回苦労されていたので、いつからかタカと呼ばれるようになってしまい、今もこの名前が世界的に使用されるようになっています。
今回のコロンビアでの国際美容外科学会でも新しい会長になったメキシコのアルトロモンタナーナが、新会長としての挨拶の中で自分を育ててもらった一生感謝する医師(My Eternal Gratitude )として7人の医師の名前を出してくれたのですが、残念なことにその中の私の名前がSUSUMO (ススモ)になっていたのです。またかーと思ってしまいましたが、会場にいた皆さんもほとんど気がつかない話だと思います。それくらい難しいのでしょうかねえ?もー、なんとかなりませんかねえ。
投稿者:megaclinic
梅田で出会った二人のおばあさん
おばあさんA: あらーまあー、あんたまだ生きてたんかいなー。
おばあさんB: 梅田に出てくるだけで、きっついなあー。
投稿者:megaclinic
学会最終日でのリナトリアナ会長
国際美容外科学会(ISAPS)は形成外科や美容外科の分野では世界最大の会員数のいる国際学会です。その会長になりたい人はとても多いので、第三副会長、第二副会長、第一副会長、次に次期会長と2年ごとくらいにランクをあげていくわけですが、この期間も激戦というか、選挙で落ちる理事も多く、すごい競争が起きることになります。
会長になると仕事がとても忙しく、2年間は十分な睡眠が取れないような感じになります。私の場合は昼間にクリニックの仕事をして、帰宅して夕食をとってから、さあこれから学会の仕事!というような感じで毎晩12時とか時には2時くらいまで働くようなことになっていました。とにかく世界中からとんでもない数のメールが来ますし、委員会だけでも20くらいありますので、それぞれに頑張って活動をされていて、それぞれのチェアなどからも頻繁に連絡が来ます。また15人の理事たちもたくさんの意見のある方々なので、新しい提案や世界のいろいろの問題の解決など、多くの仕事を抱え込んでいるのです。会長になると、一年間で約20回程度世界のあちこちで開催される講習会やライブ手術などへの参加なども多くなり、会長にはとにかくいつも参加してほしいということになりますので、私も1年間で平均で15回くらいどこかの国に行って、この講習会やライブ手術などに参加していました。
今回のコロンビアでの学会のリナトリアナ会長もおそらく同じように大変な思いで2年間の努めを果たしておられたと思います。ずっと理事会では一緒に仕事をしたきた仲なので、彼女が初めて理事会に入った時からよく知っています。最初からとても活発な意見を言う人で、その時から将来はこの人は多分会長になるだろうなあと思ったりしていました。実際にその通りになったわけです。
自分の経験から学会最終日はとにかく無事に終わったーという気持ちで、明日からは会長は次の人が担当になるんだなあとか、周りの人に感謝したり、もう頭の中はいろいろの思いがグルグル状態なのです。
コロンビアでの学会の最終日のクロージングセレモニーのあと、しばらく理事たちや過去に会長を経験した私たちなどもすこし会場に残って、あれこれ話をしていました。その時に私とリナが話をする時間もあったので、2年間よく頑張ったね、素晴らしい学会だったとほめてあげたのですが、その時に彼女は突然泣き出してしまいました。つらかったことや楽しかったこと、いろいろの思いがこみ上げてきたのだと思います。泣いたあとはとても素敵な笑顔で、彼女がどれだけ必死で頑張ってきたのかががよく伝わってきました。最後に見せてくれた彼女の笑顔は本当にすがすがしい、さわやかなものでした。
投稿者:megaclinic