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場数をふむということについて
何事もたくさんの回数を経験するということはすごいことですよね。その場にいる経験がたくさんあるということはやはりすごいことだと思います。多数の人の前で話をするという経験はどなたでもあまりたくさんの経験はないのではないかと思います。私が最初にたくさんの人の前で話した経験は同志社中学の学内の英語暗誦大会という英語弁論大会の中学生版のような大会の時でした。自分の出番前にはすごく緊張していて、自分が出番の時は途中でどのあたりを話しているのか頭の中が真っ白になった瞬間があったのです。でも実際には堂々と話していたらしくて、学内大会では優勝したのです。でも一瞬ではあっても頭の中にしっかり入っていたはずの内容が飛んでしまって、あー間違えたかも、、、と思って話し続けていたわけです。これはとにかくよかったのですが、人前であがってしまうという経験はこの時が最初で最後の経験だったと思います。こういう経験は大きいですよね。
それ以後人前で話す際にあがってしまうということはなくなりました。でも感動してまともに話せなくなったということはその後経験があります。こういうのってまた別の経験なのなのかもしれません。京都大学を卒業後ずっと大学のテニス部のヘッドコーチをしていたのですが、男子はかなりきつい指導をしても、それなりに頑張ってくれて、何回も個人戦や団体戦で優勝がありました。一方女子は部員が少なかったり、楽しむためにテニスをしていて、試合で勝つなんて考えていませーん見たいな部員が多かったわけです。それがとても長い年月続いていたのですが、ある時女子にすごい部員が入部してきて、彼女がキャプテンになって女子部員全員を引っ張って強くなりたい、負けたくないと頑張りだしたのです。それならと思って私もそれまでの女子部員に対する指導方針を変更して、とにかく鍛えて、鍛えてという方針で数年指導を続けたわけです。その結果最終的には個人戦でも団体戦でも京都大学が優勝を勝ち取るという快挙が続くようになりました。最初にえーっと思ったのが春の関西選手権でした。個人戦ではそれまでにもすごい女子部員がいたわけですが、団体戦で女子が快進撃を続けるようなことは私は一生そんなことが起きるはずがないと思っていたのです。団体戦でベスト4に入って、京都大学女子チームが団体戦で堂々と戦っているという光景が目の前で起きると、ベスト4くらいで私はもう涙目でコートがうっすらとしか見えていないという状況でした。準決勝で京大が勝って、決勝戦に出て、団体戦で優勝した瞬間はもう感激で号泣でした。優勝が決まった瞬間は、部員がみんな優勝しました、勝ちましたー、やったーと言って集まってきてくれたのですが、私自身は優勝おめでとう、すごいなあー、やったねーなどと言っていたつもりなのですが、とにかく号泣していたので、部員のみんなには「アワアワアワー、、」としか聞こえていなかったように思います。でも京都大学女子はその後何度も個人戦も団体戦も優勝をして、日本全体の強豪校になったわけです。それくらい優勝を重ねてくれると、場数をふんだ私も次第に慣れてきて優勝した際は男女合わせて部員70人ほどをコートに集めて、優勝おめでとう、ご苦労!などと泣かずに言えるようになったというわけです。場数を踏むのはとにかくすごいことです。
投稿者:megaclinic
法令線のベストの対策は?
法令線は加齢によって目立つ部位の一つです。かなり以前はフェイスリフトで横方向に引っ張るとこれがきれいになるので、フェイスリフトが一番いい方法とされていました。でも5-6年くらい前から国際美容外科学会などで、この方法に対する批判がかなり出てきました。法令線はきれいになるが、横方向に引っ張って法令線を消しているので、小鼻が広くなる方が多いということがわかってきたわけです。そういう理由で、現在は世界的にフェイスリフトは口角の下側のたるみやしわに対しては有効でも法令線をフェイスリフトで解決しないほうがいいという考えが主流になっています。
では他にはどういう方法があるかというと、法令線直下に人工骨、シリコンなどを入れる、脂肪注入、ヒアルロン酸やレディエッセなどの吸収性の物質の注入などが行われるようになっています。参考までにどの部位にも成長因子やPRPと成長因子などは絶対に入れないでください。しこり、痛み、かゆみ、凹凸、変色、膨らみすぎなどの異常な問題が多発していて、この修正ができないというとんでもないことになっています。なぜこのような危険な方法を行うクリニックがまだあるのか不思議です。また人工骨やシリコンは法令線を持ち上げる効果はかなり大きいわけですが、若い間は皮膚に厚みがあるのでいいのですが、将来歳を取ると皮膚が薄くなってきますので、この頃にシリコンや人工骨の段差が目立ってきて、これを除去したり、修正を希望される方が最近多いように思います。特に人工骨は自分の骨と結合してしまうので、この除去というのが簡単ではありません。そういう理由で、現状ではヒアルロン酸、レディエッセなどの吸収性の物質の注入と、脂肪注入が一番安全と考えられているように思います。
ただ皮膚を持ち上げる効果の点では私は脂肪注入のほうが有利と思っています。顔の皮膚にはあちこちにじん帯がついていて、骨から皮膚の表面近くまで木の根っこのようにじん帯という組織が伸びていて、これによって顔の皮膚が直下に脂肪があってもずり落ちない構造になっています。このじん帯の引っ張り強度に強弱があるわけです。実際に法令線にもこの組織があって、じん帯による引っ張りのために皮膚がふくれにくい部分があるわけです。ヒアルロン酸やレディエッセ、あるいは脂肪の注入をしているととても狭い範囲なのですが、ふくれにくい部分があるのがわかります。脂肪注入の場合は注入針がすこしだけ太いので、この抵抗するじん帯部分を注入針ですこしだけ緩めることで皮膚がさらにふくれやすい状態を作ることができます。こういう操作をしながら脂肪の注入を行うことができます。一方ヒアルロン酸やレディエッセの注入針はとても細いので、このじん帯を緩める処理を行うことができません。この状態で無理に注入をすると、ヒアルロン酸やレディエッセがじん帯のためにふくれにくい部分から周囲に流れてしまい、予定していない部分が膨れてしまうようなトラブルが起きることになります。こういうことが起きると凹凸になって仕上がることになるわけです。以上のような理由で、十分なふくらみを得たい場合は、脂肪の注入が一番有効できれいに仕上がるということになると思います。
投稿者:megaclinic
どんどん名医になる話
私が最初に形成外科の指導を受けたのは京都大学病院の形成外科に入局した時です。この時のリーダーは冨士森先生という方でした。当時京都大学では、やけどや外傷、皮膚がん、先天奇形などで、顔などの再建を希望される方が日本中からたくさん京都大学に集まってこられていました。手術の結果がとても美しいので、日本中で有名だったからです。当時京都大学形成外科に治療を希望で来院された場合、どなたにも手術は京都大学でお受けしますが、手術予定は大体3年くらい先になりますと伝えなければなりませんでした。それくらい患者さんが多かったのです。
冨士森先生とはその後ずっと付き合いがあり、ごく最近まで学会などでも会うことが多かったわけです。時々食事も一緒にしたりしていたのですが、最近冨士森先生がよく言われていたことは、歳を取るほどどんどん名医になるなあということです。患者さんの経過を何年も長期に見ることが多くなり、いろいろの経験も豊富になっていくわけです。医師になってすぐの頃は手術直後の結果が良ければ、よくできましたというようなところがあるわけですが、たとえば3年後、10年後にどうなるかということは、なかなか若い医師には見えないわけです。せいぜい3か月後の結果が良ければ安心というようなところもあり、特に子供の手術などでは将来成人になった時どういう問題が出てくるかということは、なかなか実感として浮かばないわけです。手術の経過を3か月くらいではなく、何年も長期に見ていたり、同じ患者さんの成長をみていたりすると、3か月後の結果からは予想ができないような変化が起きてくるということもまれにはありうるわけです。
そういう意味で医師となって同じ患者さんをずっと見ているというのは自分へのフィードバックのようなものなのです。学会や論文などで、新しい手術や治療が次々に出てくるわけですが、私自身も冨士森先生が言っておられたように、こういう治療をしてはいけないとか、将来この患者さんはとんでもないことになるなあなどと思ってしまうことがあるわけです。学会でそういう講演を聞いた時は必ずこんな手術はこういう危険があるなどと必ずかみつくことにしています。そうしないとそこで聞いていた他の医師はおそらく同じ手術をしてみようなどと思うわけですから、危険と思われる治療や手術については私はこう考えるという反対意見は必ず述べるようにしています。うるさい医師ということになりますが、全国の患者さんのために自分のコンピューターが止めなければと思う治療や手術は全力で反対と言うようにしています。歳を取るほどどんどん名医になるといういうのは本当にそのとおりだと思います。長年の経験というのは若い医師にはとてもわからないことだと思います。自分が若い時にはたしかにそうでしたから、間違いありません。
投稿者:megaclinic
過去にインプラントによる豊胸手術を受けた方へ
今までにインプラントによる豊胸手術を受けた方はとても多いと思います。当院の患者様でバストの定期検診のために通院をされている方にはすべての方にお伝えしていることですが、当院での定期検診を受けておられない方もあり、さらに当院以外で豊胸手術を受けておられる方もかなりすごい人数の方があるわけですから、ここで豊胸インプラントの問題についてお伝えしておきたいと思います。現在当院でバッグによる豊胸手術を受けられる方や乳がんでインプラントによる乳房再建を受けられる方には、手術後毎年定期検診をうけてもらうのがベストと伝えています。検診では乳がん検診とバッグの検診の両方を行っています。将来なにか問題があれば、すぐに対応ができるわけです。これができない方は、せめて住んでおられる地区などで、超音波による乳がん検診をお勧めしています。これで乳がんとバッグの検診の両方を受けることができます。万一ずっと受けていないとか、受けたくないという方も時にはありますので、こういう方の場合は手術から15年くらいでバッグを新しいものに入れ替えるか、除去することをお勧めしています。これは近年になってバッグの劣化という問題がわかってきたからです。現在使用されてるバッグはコヒーシブシリコンというバッグで、万一破損があってもバッグ内からシリコンが出てしまうことがないように作られています。以前のバッグは破損があるとバッグからシリコンが漏れ出て、これがバッグ周囲の被膜(カプセル)を通過して次第に周囲に拡散することがありました。こうなると漏れ出たシリコンを回収するのがとても難しくなるわけです。現在のバッグはこういう問題は起きませんが、破損した部位に次第に石灰化などが起きることがわかっています。これが起きるとしこりや痛みなどを感じるようになったり、レントゲンで影が出たりすることになります。石灰化が進行するとこれを除去するための手術はかなり面倒なことになります。
もう一つの問題は過去にどのメーカーのバッグを使用されていたかという問題です。現在アラガン社のテクスチャードインプラントだけがALCLというガンが出る可能性があるということになっています。そもそもとてもまれなガンなので、これを入れている方であっても定期検診をうけてもらい、さらに急にバストが腫れることがあれば、診察をすぐに受けるということで手遅れにはなりません。このインプラントはもともとマックガン社が開発したもので、その後イナメドという会社に買収され、さらにその後アラガン社に買収されています。同じバッグに3つの会社の名前がついていたわけです。すべて同じバッグなので、これらのバッグを使用している方は必ず定期検診を受けてください。またこのバッグを入れている方は将来バッグを除去したり入れ替える際にはバッグ周囲の被膜の除去を行うのが安全とされています。
最近はバッグを入れてから長期経過後にバッグを除去したり、新しいものに入れ替える方が多くなっています。こういう手術を検討されている方は大体豊胸手術を受けてから15年程度を目安に検討されるのがいいように思います。万一のもれや破損があっても、石灰化などが進行していませんので、バッグの除去や入れ替えも簡単にできるからです。また万一バッグ周囲のカプセルと呼ばれる被膜の除去が望ましい場合もこれくらいの時期であれば、簡単にできます。
投稿者:megaclinic
リフト効果のある脂肪注入
顔にたるみがある場合、大きい効果はもちろんフェイスリフトが一番確実です。10年から15くらい若返ることができるわけですが、たるみがわずかというケースもあります。このような場合、対策の一つは脂肪注入です。もちろんフィラーでもかまいませんが、ヒアルロン酸やレディエッセのような吸収性もものであれば、定期的に補充が必要になります。
その点脂肪注入は一度生着すれば、ずっとこの脂肪が残りますので、効果の持続の点では有利です。この脂肪注入をうまく行うとリフト効果が得られます。基本的に脂肪が顔の上のほうに多めに入ると、皮膚が持ち上がったように見えます。たとえばほほなら上のほうに多く、下のほうに少な目に脂肪注入をすると皮膚が持ち上がったように見えます。
またもう一つのテクニックとしてはほほ骨などの上側にすこし脂肪を注入しておくと、骨の上側で皮膚を引き上げる力が生まれます。これにより注入部位より下側のリフト効果が得られることになります。皮膚そのものは脂肪注入で張りが出ますので、皮膚も若い印象が出ることになります。
このような方法を使用して、脂肪注入で顔のたるみに対してリフト効果を出すことができます。脂肪注入は翌日までのテーピングが必要なだけで、翌日からは化粧も洗顔も入浴も可能になります。また抜糸もありませんので、とても楽な方法というわけです。注入のための針穴もすぐ消えてわからなくなります。
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私の母
私の母は高柳みれいという名前です。京福電鉄の社長や会長をしていた祖父が画家のミレーの絵が好きで、この人の名前から取ったそうです。ピアノがかなり上手でほとんどプロのような人でした。でも料理は悲惨で、母の料理でおいしいなあと思った記憶があまりありません。たとえば味噌汁が辛くて文句を言うと、水をもってきて飲んどき…みたいな人で、腹に入ったらみないっしょというのが口癖でした。
小学校の時に母の作ったお弁当をあけると不思議なことがあって、私の卵巻きだけが黒いのです。他の友達の卵巻きはみんな黄色いのですが、なぜなんだろうといつも変だと思っていました。ずっと後になって、母の作ったものはお砂糖がすごく入っていたためということを知ったわけです。おかげで世界のどこに行ってもまずいなあと思う食事でも平気で食べられるようになったのはある意味ありがたいことでした。
母がピアノ以外で得意だったのは刺繍です。いろいろの作品を作っていて、きれいなものが多かったのでよく覚えています。いくつも家に残っていて時々懐かしく思って眺めています。ついでに彼女が残してくれたもので、迷惑しているものは清水焼です。これは京都で母が習っていて、いくつもお茶碗や湯呑などを作ってくるのですが、中に30分以内でお茶を飲んでしまわないと、お茶が漏れてくるというものもあって、そんなお茶碗ってないですよね。まあ、いろんなものを残してくれた方です。
母の作品(クロスステッチ刺繍)
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両親、祖父祖母
私の両親はどちらももう亡くなっていますが、時々両親のことや祖父や祖母のことを思い出します。本当にたくさんの思い出があります。私の父も父方の祖父も医師でした。どちらも京都大学医学部の卒業で、私で3人続けて同じ大学の医学部の卒業というわけです。父は小児科医で祖父は内科医でした。曾祖父は私は全く知らないのですが、富山で百姓をしていたそうです。富山の上千俵という所は、同じ町内に高柳という方がたくさんおられて、どうも高柳の発祥地のような気がします。
父方の祖父はとにかく勉強家で、私が小さい頃富山に行くと、必ず毎日何度も机の前に座らされて、算数などの問題を解いてみろと言われたり、勉強ばかり必死でやらせるという祖父でした。とにかく一緒に遊んだという記憶が全くありません。祖母は勉強ばかりさせられている私を見て、なだめるばかりで祖父には従順な人であったようです。そういう理由で私は小さい頃富山に行くのはいやでいやでたまりませんでした。楽しいことが全然なかったからです。
一方母方は全く雰囲気の異なる祖父と祖母でした。祖父は京福電鉄の社長や会長をした人で、特に私が小学生の頃は福井の支社長だったので、福井県の三国サンセットビーチの丘の上一帯が自宅で、毎年夏はずっとここで暮らしていました。目の前に海の水平線が見える丘の上に家があり、目の前は芝生の広い庭で、両端に松林があり、一方の松林の中を歩いていくと庭の中に川が流れていて、この川を越えるとやっととなりの家があるというような広大な家でした。祖母も面白い人で、午前中に夏休みの宿題などをしていると、勉強などしてないで、海で泳いで来なさい!というような人でした。そういうことで福井の祖父と祖母の家に行くのは楽しくて仕方がありませんでした。福井の祖父の家系はもともと加賀藩の家老までたどることができ、祖父の父は北前船のオーナーの一人であったそうです。石川県の橋立に西出家の跡地というところがあります。ここが北前船のオーナーをしていた頃に曾祖父が住んでいた家のあったところだそうです。ホタルがたくさん見えるところとして地元では有名な場所だそうです。
時々両親のことや祖父や祖母のことが思い出されるのですが、みんな心の中で今も生き続けていますよね。
投稿者:megaclinic
随想
克誠堂出版社の医学誌「形成外科」の12月号に、院長の随想(MEMOIR)が掲載されました。以下が本文です。
集団がカラフルであるということについて
私が医師になって初めての研修は、京大病院の形成外科でした。私が所属してからしばらくして、医局の中に脳外科出身の医師や内科出身の医師が入ってくるようになり、ある意味とてもカラフルな医局になった時期があります。
このころ症例検討会などでは、時に脳外科の立場からの意見をいろいろ聞けたり、内科的な問題がある患者さんの治療方針を検討する際に、内科出身の医師の意見を聞いてみて「なるほどなあ」と感心したり、多くのことを経験しました。
これらの異色の医師達はいつも一緒に病棟にいるので、わからないことを気軽に聞くこともできていたわけです。このころふと思っていたことは、当時の京大形成外科の医局というチームはかなりの実力があって、安全で効果的な治療を考えると、このように多様な色彩をもった医師のいるチームは最強だなぁということでした。
その後、私自身は国際美容外科学会(ISAPS)の理事会で活動をすることになり、12年間仕事をしていました。また、そのうちの2年間は会長も務めたわけですが、この理事会での活動でも京大時代と同じようなことを考えていたことがあります。
この理事会のとてもユニークな活動の一つにStrategic Planning Meeting というものがありました。これは2年に1回くらいのペースで、世界のどこかで朝から夕方まで丸1日かけて開催されるミーティングです。ISAPSの未来を考えるためのミーティングで、ISAPSをさらに発展させるためには何が必要で何が不要か、新しいアイデアは何か、会員は何を求めているか、理事会は何をするべきか、というようなことをディスカッションしていました。
この会議は、会長を含む理事の半数程度と、理事会以外からの参加者7-8人で行われていました。美容外科の事情が分かっている人なら誰を参加させてもいいというもので、理事の推薦者や参加希望の方、さらに美容外科関連の企業の方、広告会社の方など、もう誰でもいいわけです。こういう人達が集まって開催される会議は本当にカラフルで、思ってもいない意見があれこれ出てくるので本当に面白いミーティングでした。この会議では常にOutside the Box と言われており、「時代も世界も流れて変化が続き、その形も変わり続けているのだから、国際学会のような大きい組織も常に変化を続けなければ、いずれ消滅する」という考えが根本にあります。私以前の会長や理事の方々が打ち出したこういう柔軟な考え方は斬新でありながらも、いまだに通用している立派な概念であり、本当に感動します。
一つのチームは、違った考えをもっている人や、技術、知識、経験などの色彩が異なる人々で構成されている方が強いと私は常々思っています。これらの人たちが自由に発言したり、活動することを許容するという寛容力が、チームを前進させるためにとても大切なものではないでしょうか。
投稿者:megaclinic