北九州市の小倉記念病院
私が大阪で開業する直前はアメリカに留学していましたが、この留学前は北九州市の小倉記念病院の形成外科の主任部長として6年間この病院に勤務していました。京都大学を卒業して、その後は京大病院の形成外科に入り、その後京大の麻酔科研修を経て、大阪の日本赤十字病院形成外科に在籍していました。この形成外科では4人の形成外科医がいて、当時私は一番下の医員で働いていました。このころ形成外科では上に部長、副部長、先輩医師の3人の医師がおられたのですが、当時マイクロサージャリーという顕微鏡下での神経縫合や血管縫合などによる組織移植は私しかできない手術であり、さらに乳がんの乳房再建という手術も上の3人の医師ができない手術だったということもあって、その頃大阪日赤病院の形成外科では私の患者さんが一番多く、多忙を極めていました。
大阪赤十字病院で忙しく働いていた時に、京大形成外科の教授から電話がかかり、いやな予感がしたのですが、一度京大に来なさい、話があるということでした。京都に行くと、いきなり北九州の小倉記念病院に新しく形成外科を作ることになり、その派遣医師を京大の医局から出すことになった、それで大阪日赤で多くの患者さんを抱えていることはよく知っているが、来月から北九州の小倉記念病院に勤務してくれ、、、ということでした。行きたくありませんと何度も教授に言いましたが、当時医局の人事権は教授にあって、命令だと言われると、もうどうしようもなく、縁もゆかりもない北九州に転勤になったわけです。
最初家を探すために病院を訪問した時に事務の方に、病院が小倉北区にあるので、なるべく近いところに家を探したいと希望を伝えました。ところが事務の方は、小倉北区はいろいろ問題のある人が住んでいるところで、この病院の医師はほぼ全員北区には住んでいません。あなたの安全のために、家は小倉南区で探してくださいと言われて驚いたことがあります。あとでわかったことですが、やはり暴力事件の多い街で、北区はある意味、当時はとても怖いところだったわけです。一年に一度くらいは小倉北区では銃撃事件などがあったわけです。病院そのものは、北九州市では名門の病院で、6年間ここで主任部長として勤務していましたが、毎年患者さんが増え続けて、最初は私一人でスタートした病院でしたが、2年目からは2人、3年目からは3人と医師が増えて、忙しい診療科になりました。病院でのいい友人も多く、住んでいた周囲の方もとても暖かい人が多く、たくさんのいい思い出の残る病院になりました。